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千葉工業大学予科 桑蓬寮逍遥歌よ永久に

養老 慶一
(千葉工業大学予科・昭和25年修了)

日本寮歌祭40年史の発刊を寿ぎ、寮歌の裏話の末席に参加させて頂きます。これから紹介しますのは、現在、千葉工業大学で専ら多く親しまれ謳われている『たれ邯鄲の夢』(松藤淳作作詞、山口猛作曲)になる逍遥歌誕生の経緯です。本稿は平成2年11月1日の発行の千葉寮歌祭5周年記念文集『青春遥かなり』に山口猛氏が寄稿されたものに付き一部加筆、ご本人の了承を頂き寄稿致しました。

「昭和20年の8月15日、太平洋戦争の終結によりわが国は嘗てない敗戦を経験するのである。昭和17年に開学した興亜工業大学とその予科は度重なる戦火により、創立の地玉川(現玉川学園)より麹町(現上智大学)へ、そして川崎の大師河原にある日本冶金工業の併設青年学校へと転々としており、安住の地が求められていた。終戦の混乱期にあって大学の関係者は鋭意、永住の地を定めるべく各方面へ折衝を重ね、昭和20年暮れに漸く千葉県君津郡君津町にあった旧海軍工廠海軍技術員養成所跡を入手した。こうした状況の中で昭和21年の春、新たに予科1年生を迎えた。東京、神奈川、そして千葉へと移転したのを機に、また興亜という名称も当時の国策めいた名であり、これを機に興亜工業大学より千葉工業大学と新たな名称で再出発する事となった。当時の予科は全寮制であり、桑蓬寮と称し予科寮は東西南北と4棟に分かれ300数10人が起居を共にする完全自治寮であった。特に予科生はバンカラで学部寮の紳士的な気風とは趣を異にしていた。そして近隣の人たちからは愛され、とりわけ女学生には大もてであった。敗戦後の世の中が少し安定し始めた時、この地に移転して最初の寮祭を開催する事になった。今までストームなどで歌っていた東京や神奈川を背景にした寮歌から脱皮し、新たなこの地にふさわしい寮歌を全寮生より募集する事となった。

そして、寮祭の前に寮歌の歌詞が募集され、次いで作曲を募集し千葉移転第一回寮祭の最中に発表する事となった。私は同室の岡村千代松、橋本佐吉、稲葉雄作の各氏と相談して作詞部門で選ばれた5編の中から松藤淳氏作詞の逍遥歌『たれ邯鄲の夢』に曲をつける事とした。

当時の予科生としては見事な内容で、敗戦後の社会情勢と若人の考え方、封建時代より民主主義への変転、そして青年の意気を未来に描けた歌である。 寮の近くの八重原小学校のオルガンを借用して作曲に挑戦すること2週間に及んだ。熱心に通いつめた裏には音楽の女教師が大変可愛らしく美人であった事も見逃せない。

そして寮祭の当日の発表では私共の逍遥歌は残念乍ら第3席であった。第1席と第2席が新しい寮歌・逍遥歌となった。併し、ここで或る事が判明した。それは第1席と第2席の歌詞と曲が当時の著名なる文学者と作曲家によって修正されたのである。このため寮生が反発し寮の各行事やストームに全くといってよい程歌わなくなって、何時の間にか第3席である私共の逍遥歌が歌われる様になり、以来今日に至っている。今日では日本寮歌祭や千葉寮歌祭は勿論の事、各地の寮歌祭や同窓会の席で最後を盛り上げてくれる歌となっている。一寸した偶然からいまだにこの逍遥歌が歌い継がれている事は、私にとってはこの上ない幸である事をしみじみ感ずる今日此の頃である」と。

昭和の激動期に生まれた逍遥歌も齢60となり、その詩情現代に共感を呼ぶところ多大。意気に感じて永久に歌い継がれる事を期待する。

校歌 寮歌 応援歌一覧

千葉工業大学校歌
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逍遙歌(1)
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興亜工業大学予科寮 桑蓬の歌
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逍遙歌(2)
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饗宴の賦
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