お知らせ

農業分野進出にも意欲
学生諸君は見聞広めて!!(活躍する校友news CIT2008.6.15)


オリオンビール株式会社社長
仲村 文弘氏(68)
(昭和39年 工業経営学科卒業)

 ビールの命は新鮮さ。ゆえに産地で飲むのが一番うまい。南国・沖縄県なら断トツ人気はオリオンビールだ。その経営トップが仲村さん。同県浦添市の本社で会った7代目社長は、気さくで多趣味な人柄であった。

 卒業は県立那覇高。ウチナー(沖縄)生まれと思ったら、「実は浪速です。板金工だった父が大阪市内の町工場で働いていましてね。小学2年に父のふるさと那覇へ家族で戻りました」。1950年代中ごろで、基地の島はまだ太平洋戦争の傷跡をそこかしこに残していた。

 「日本は敗れた。しかし、いずれ復興へ向かう。工学が重要になる。工業経営をやってみろ」――いとこがそう言って勧めたのが本学。父の町工場を広げたいとの夢も、心の片隅にあった。

 そのころの沖縄は米軍統治下である(1972年、施政権返還)。本土との往来にパスポートのいる時代。キャンパスから歩いて10分の下宿暮らしの長男へ、父は毎月30ドル(当時1ドル=360円)を送ってくれた。「本土で初めて見た円紙幣は安っぽく感じられましたね」。

 津田沼キャンパスは今でこそビルが並ぶが、当時は木造校舎。階段はギシギシきしんだ。西船橋駅も東船橋駅もなく、「ずいぶん田舎だなぁと思った」と笑う。間近に見える谷津の海は沖縄の浜と重なり、高校時代から好きな釣りへしばしば出かけた。

 「鹿児島県から来た友人と一緒にハゼを釣り、大久保寮で天ぷらにして食べた。マージャンもやった」。大学に入学して始めた剣道も二段を取得した。

 「趣味は船橋の喫茶店でよくタンゴやシャンソンを聴くことでした。ジャズが主の沖縄と文化が違うなと驚いた。映画もたくさん見ましたね」

 生活は厳しく、頑丈な自転車の荷台に満載した中元商品配達のバイトなどでつないでいく。

 「もうひとつしたのは旅です」。むろん“のんびりツアー”ではない。必修科目の工場実習だ。2年生から広島県(自動車部品プレス加工)、群馬県(電器部品製造)、石川県(織機メーカー)、そして東京都葛飾区(靴製造)と巡った。とくに石川県には1カ月もいた。「日本海で泳ぎ、社員の先輩が金沢・香林坊の飲み屋へ案内してくれた。ものづくりの現場体験は辛くもあったが楽しかった」。卒論テーマは工程管理(人間の疲労度)を選んだ。

 卒業した1964(昭和39)年、「親不孝ながら」(仲村さん)ビール業界へ。妹弟5人の学費支援もあった。いまでこそ有名会社へ成長したが、まだ創業5年目。本土から中古設備やノーハウを導入するベンチャー企業の走りだった。当然、配達など営業からスタートだ。

 ベトナム戦(1960~75年)の砲声は激しく、「米兵の荒んだ姿をバーなどで見かけました」。ひとつの時代が過ぎようとしていた。

 忙しいさ中にも釣りやダイビング、読書を忘れなかった。山本周五郎『青べか物語』を繰り返し読む。懐かしい浦安の町を思い浮かべつつ。

 常務、専務をへて5年前、社長に。アサヒビールと業務提携し、本土でも飲めるようになった。「課長になった時の方がうれしかった。それまで共用だった電話が1台専用で置かれたんです。トップがつらいのは人を動かすこと(人事)」と率直である。「なんじの立つところを深く掘れ」(「与えられた業務に気がすすまなくても天命と信じ、これに打ち込む」の意)をモットーに、トマト栽培といった農業分野などへビジネス拡大を狙う。

 「入社試験などで面接する若者に気になるのは、本や新聞を読まなくなったこと」と言い、こう付け加えた。「例えば『テーブルをきれいにせよ』と命じられる。表面を拭くことは誰もがやる。大切なのは隠れた裏面も拭く気持ちです。一を聞いて十を知る感性。そのため学生諸君は見聞を広めて欲しいですね」。

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