人にFOCUS(支部会員の紹介)

VOL8:昭和32年電気工学科卒 谷井 宏(タニイ ヒロシ)さん

 同窓会広島県支部の支部長を長年務められ、同窓会活動に参加する会員の拡大や親睦、大学との連携強化などをすすめられた。中四国の各支部が持ち回りで開催しているブロック大会の誕生にも尽力され、現在のカタチが出来た。
 広島県支部はもとより、中四国ブロックでもリーダーだった谷井さんを、是非フォーカスして欲しいという会員の声が多く届いていたが、ようやく実現の運びとなった。
 1月の終わり、ご自宅でお話を伺った。

---どうして千葉工業大学へ進学されたのですか?---

 一浪が決まって途方に暮れていたところ、高校の担任だった先生から千葉工業大学への進学を薦められました。先生は、千葉工業大学の前身は興亜工業大学、戦時下の昭和17年に大東亜共栄圏を興すために設立された本邦初の単科大学で、日本の技術力強化のため、著名な教師が選抜され、東大に次ぐ優秀な学生が全国から集まっていると話されました。
 私はもともと理学部を志望していましたが、勉強だけにとらわれず、興味のあることを存分に習得すればよい、という考えに至り進学を決めました。

---どんな大学生活でしたか?---

 寮で3年間を過ごしました。全国から集まった200人前後の寮生が自治寮として運営を行なっていました。4人部屋で入寮時は3人の先輩(うち2人は戦争から帰還した最後の予科の先輩)と相部屋でした。
 3年次には寮長になり、いろいろなことを経験しました。主食の米は卒業生が寮に籍を置いたまま米穀通帳を残していたので充分に手に入りましたが、味噌や醤油、副食材料などの入手に奔走しました。
 また、長期休暇中は、帰省しない寮生が食べるお金がなくて寮でごろごろしており、寮委員に用意していた食料を僅か1週間で食べ尽くし、その後皆で苦しんだことが懐かしく思い起こされます。


3WAYスピーカーボックス

 アルバイトは経済面だけでなく知的な内容を重視。家庭教師や特許事務所の出願書類に関する技術内容の検討や原案作成を行いました。
 中学高校時代に手掛けたラジオ製作や、大音響アンプの修理などの経験を活かして、寮生や近所の人から頼まれてラジオやテープレコーダーを作りました。さらに、当時はやりはじめたHI-FI音楽喫茶の開店に合わせて高音質アンプの設計製作を依頼され、預かった大金20万円で完成させました。
 4年次(昭和31年)の卒業研究は強電をテーマに選びました。学外指導講師の麻生先生(高電圧工学)所属先である東京大学生産技術究所藤高研究室で「F型閃路点表定器のタイマー」を研究テーマとして取り組むことになりまた。これまでテスターやブラウン管オシロスコープしか知らなかった私は、初めて見る測定器や実験設備がある東大生研に驚きました。隣の糸川研究室では、ペンシルロケットの発射実験の爆発音が響き、実験中の眠気を覚まさせてくれました。
 藤高研究室にある日、米TI社から一通の小包が届き、中には柔らかな厚紙に三本足のトランジスタ数十個が突き刺すように納められていました。この小さなトランジスタが真空管に代わるのかと、米国の先進技術に驚きました。
 東大生研で過ごした1年間はすべてが最先端のことばかりでした。

---第一の人生(大学卒業後の仕事)は、どうでしたか?---

 昭和32年3月、卒業後は広島に戻って新川電機(広島本社)に入社し、計測機器のエンジニアになりました。当時の日本は戦後復興の真っただ中で、各社は戦時中の生産設備の遅れを取り戻そうと、海外から最先端の生産技術のノウハウの取得に奔走していました。オートメーション技術が確立していない中で、大学で習得した「自動制御論」が役立ちました。
 欧米から購入した生産プラントの設計書類を基に、国内で対応できる生産設備の技術提案に書き替えるためには、原料の把握から生産プロセスの最適条件、生産品質の安定化など、新しい技術の習得に膨大な時間が必要で、昼夜を問わず取り組みました。今思えば、損得を問わない、一心不乱な国民の努力が日本の遅れを取り戻す大きな力になったと思います。
 そうした中で鉱業、化学、繊維、紙、石油、鉄鋼、機械などいろいろな業界のプラント制御システムを経験することができました。プロセス制御では、計装工事の現場指導、試運転の調整・立合い、制御系機器の取扱い説明、メンテナンスサポートなどを行いました。日本初のティシュ製造機の試運転では、柔らかいティシュの山の中で冬の夜を過ごしたことを思い出します。新川電機に入社したからこそ、業界を越えた各種のプラントを幅広く扱うことができたと思います。
 仕事を通じて痛感したことは、実際の生産現場で必要とされる知識や技術は、工学部全学科の知識技術とその応用だということです。私はたまたま電気工学を選びましたが、大学では理工系の勉強の仕方を習ったに過ぎません。もっと先を見据えれば、医学・理工系は当り前、文系の政治・経済も必要になることに気付かされました。

---第二の人生(会社を卒業後)は、どうされましたか?---


広島県立歴史民俗資料館 文化財講座

 平成10年、42年間の会社生活を終えて、新たに社会との繋がりをつくろうと思い、広島県立歴史民俗資料館の解説ボランティア養成講座を受講し、翌年度から委嘱を受けました。
 同資料館の解説対象は、旧石器時代から古代・中世までに広島県内で出土した石器や土器、青銅・鉄器など960点です。
 その中で特に興味を抱いたのが、弥生時代に大陸から渡来した鉄器類でした。会社で鉄製錬プラントなどの制御系のプロジェクトに携わった経験から、鉄の技術史について掘り下げてみようと思い、母校の後輩である金属学科の寺島慶一教授(故共同研究者)に相談したところ、試みに日本鉄鋼協会の公開研究発表会の聴講を薦められました。


島根県立古代出雲歴史博物館
(左端が稲角フェロー)

 初めて参加した公開研究発表会で偶然話しかけられた稲角忠弘先生(共同研究者)と話しているうちに、中国山地の砂鉄に強い関心を持ってもらいました。それが縁で鉱物学・冶金学の指導を受けることになり、新しい分野に挑戦してみようと第二の人生に大きな夢を抱きました。
 往時の砂鉄の違いを鑑別する手段は五感に限られていました。選鉱状態、色、粒形、手触り、火にくべた反応、炉内の挙動、生成鉄の出来具合などを観察し、勘と経験で鑑定していました。
 私はこの匠の技を現代の科学的解析手段を用いて解明できるのではないかと思いました。私が思いついた砂鉄解析法は、比重選鉱で砂鉄の脈石や夾雑物を取り除いた後、粒子群の違いを粒度別・磁性別に16分類すると、今まで不可能だった物性値の幅の狭い砂鉄ごとに分類が可能になることです。


日本鉄鋼協会フォーラム(千葉工業大学2号館)

 砂鉄解析の最終目的は、砂鉄の違いが“たたら操業”にどのように影響するかを明らかにすることです。
 稲角先生の指導で「谷井解析法」に辿りつき、研究会で5回発表しましたが、研究は緒についたところです。
 第二の人生では、第一の人生で得た経験が生かせることを知りました。専門の異なる業界や学会であっても、専門ではないからこそ気づける発想が必ずあると思いました。

---どんなことをモットーにされていますか?---

 会話の場を持つことですね。人との出会いが活動の場を広げてきたと思います。学生時代も、第一・第二の人生も、キーパーソンとなる人に偶然出会って、言葉を交わしたことで進路が決まったり、仕事が出来たり、目標が明確になったりしました。
 現在も出来るだけ会話の場に出かけるようにしています。新川電機のOB会が年4回、広島県立歴史民俗資料館の常設展示の解説が月1回あります。また、全日本写真連盟広島県支部と松ヶ丘写真クラブに入っており、毎月1回、例会があります。もちろん、母校の同窓会活動に参加するのもそのひとつです。

---同窓会活動に思うことは---

 長年、運営する側に携わってきましたが、どのようにすれば興味を抱いてもらえるかに苦心しました。
 前述のとおり、会話の場があるということは、とても意義があることだと思います。加齢が進むと孤独になりがちになるため、自分から積極的に参加して欲しいですね。そして、参加者と積極的に会話をして欲しいですね。

---後輩に贈る言葉をお願いします---

 若い時にいろいろなことを幅広く経験して欲しいです。知らないことに関心を持ち追究する、専門外の人と意見を交わすなど、自分の殻に閉じこもらないで欲しいと思います。
 何事も興味があるから出来るのだと思います。どんな時も前向きでありたいですね。

---その他のエピソード(谷井さんの原文)---

  1. 幼児期は“坊ちゃん”、中学と大学寮では偶然にも“坊や”呼ばわり。
  2. 小学校は3度の転校を余儀なくされ、勉強嫌いな劣等生。
  3. 入社3年後、九大病院の心電計修理の縁で、患者100人の波形特性の統計調査に参加。
  4. 新潟出張中、三・八豪雪に遭遇、二泊三日間宿に閉じ込められ、毎食がエビ料理三昧。
  5. 水に溶ける紙工場の試運転で、試作で不要になった紙の山にもぐり込み冬の夜を過ごす。
  6. 農業試験場で水耕栽培に混入の肥料を管理し、生育過程毎のPNK要求量を逆算把握。
  7. 2013年9月、奈良で開催されたBUMA8国際会議に出席、世界観が変わる。
    Beginning of the Use of Metals and Alloys 8

編集後記

 仕事に、研究に邁進される姿から技術者魂が感じられる。どんな難題、難問も、粘り強く取り組まれ、クリア―されてきたのだろう。
 お話の中で「たまたま」という言葉を何度か発せられた。たまたま千葉工業大学に進学、たまたま会社に入り、たまたま解説ボランティア養成講座を受講し、たまたま共同研究者と出会ったなど。確かに全てが「たまたま」かも知れないが、そうした機会を逃さず、幅を広げていこうという姿勢、行動力が次のステップに繋がっていると思った。
 興味関心を持つことの意義を改めて感じた取材でした。

リポーター:篠原高英(工化49年卒)